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<feed version="0.3" xml:lang="ja" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"><title>即便微笑</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/" /><modified>2008-04-22T20:08:43+09:00</modified><tagline>即便微笑（そくべんみしょう）というのは、経典で出てくる言葉。
「王舎城の悲劇」の中で主人公が大事なことに気づいてくれた時に出た釈尊の微笑のこと。
僕もそんな文章を書きたいなぁ〜</tagline><generator url="http://jugem.cc/">JUGEM</generator><entry><title>今月のことば?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=783648" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=783648</id><issued>2008-03-24T22:02:23+09:00</issued><modified>2008-03-24T13:02:23Z</modified><created>2008-03-24T13:02:23Z</created><summary>ありのままに生きるということは簡単そうでむずかしい
　　　でも本当に大切なことである
　　　　　　　　　 −ＨＰ今月のことばより−


ハンセン病の国賠訴訟の裁判をご存知でしょうか？

国の「らい予防法（廃案）」が多くの人権侵害を生み出し、間違っていた法...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>雑感</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[ありのままに生きるということは簡単そうでむずかしい<br />
　　　でも本当に大切なことである<br />
　　　　　　　　　 −ＨＰ今月のことばより−<br />
<br />
<br />
ハンセン病の国賠訴訟の裁判をご存知でしょうか？<br />
<br />
国の「らい予防法（廃案）」が多くの人権侵害を生み出し、間違っていた法律であったかを白日のもとにさらす裁判です。<br />
<br />
その裁判の過程で原告の皆さんが当時心の奥底に封印していた自分の本当の気持ちを語られました。<br />
<br />
「家族から捨てられた」<br />
<br />
「堕胎させられた」<br />
<br />
「無菌なのに強制的に入れられた」<br />
<br />
「大好きだった人から裏切られた」<br />
<br />
「家族はその場所にいられなくなった」<br />
<br />
みんなそれぞれの思いを、言葉を確かめるように語られ、らい予防法は間違いであったと主張し、闘われたのです。<br />
<br />
本当のことを言うことはとてもエネルギーが要ることで、できれば静かに生涯を閉じたいということも、本音であり、選択肢の一つであったと思います。<br />
<br />
しかし「私たちのような人間を二度と作らせない」「人間として生きたい」という思いが、立ち上がらせ語らせたのです<br />
<br />
その回復者の皆さんの堂々と語られた姿は、私自身にも深く刻まれましたし、ありのままに生きることが難しい時代という視点からも、多くの人に影響を与えるものであったと思っています。<br />
<br />
]]></content></entry><entry><title>土徳</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=783647" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=783647</id><issued>2008-03-24T21:59:58+09:00</issued><modified>2008-03-24T12:59:59Z</modified><created>2008-03-24T12:59:58Z</created><summary>土徳（どとく）」って言葉を知っていますか？

もともと金子大栄師の造語らしいのですが、その土地に備わった徳のことで、そこに住んでいると、知らず知らずに徳を身についているという意味です。

確か５年ほど前にドキュメンタリー映画で「土徳」というのがありまし...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>雑感</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[土徳（どとく）」って言葉を知っていますか？<br />
<br />
もともと金子大栄師の造語らしいのですが、その土地に備わった徳のことで、そこに住んでいると、知らず知らずに徳を身についているという意味です。<br />
<br />
確か５年ほど前にドキュメンタリー映画で「土徳」というのがありましたが、そのテーマそのものの映画でした。<br />
<br />
ここ小松も昔から土徳のある場所と言われてきたのですが、近年は時代の流れの中で失われている感じがします。<br />
<br />
ところが先日６０代を越えた男性がお寺に尋ねてきて、ご本尊を新しくしたいというのです。<br />
２年前から仕事を辞められてお参りするようになって、「ご本尊の傷みが気になりだしたので」と仰るのです。<br />
<br />
その方はそれまであまりお参りをされたわけはないと思うのですが、しかし、お参りをするようになって、傷みが目に付くようになって気になりだしたのです。<br />
それまで多少古くなっても気づかなかった方が、代えようという決断し、わざわざ自らお寺まで来られたというのは、ある意味稀有な心が起きたと言えるのではないでしょうか。<br />
<br />
思えば知らず知らずお参りをされていたというのも、本人も気づかない深い所で自分を探し始めたということだと思うのです。<br />
それが伝統の上ではお内佛（おないぶつ・仏壇）におまいりをするという行為になったのではないでしょうか。<br />
ここは加賀地方はよくお参りをしただけでなく、自分の人生を仏教に尋ねてきた歴史を持っています。それが知らず知らずに身についたのかもしれません。<br />
きっとこれから、先祖の方が歩まれたようにその方もまた、自分と真向かいになって歩んでいかれるのではないかと思っています。]]></content></entry><entry><title>今月のことば?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=783644" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=783644</id><issued>2008-03-24T21:56:54+09:00</issued><modified>2008-03-24T12:56:55Z</modified><created>2008-03-24T12:56:54Z</created><summary>種も蒔かないで結果だけを求めるな
お互い今の自分から歩みだそう

　　　　　　　　　 −ＨＰ今月のことばより−


ある友人のお話です。

その友人は、以前に星野富弘さんの個展を観て「多くの支援者がいたからこんな事ができたのだ」と思っていたそうです。
し...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>雑感</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[種も蒔かないで結果だけを求めるな<br />
お互い今の自分から歩みだそう<br />
<br />
　　　　　　　　　 −ＨＰ今月のことばより−<br />
<br />
<br />
ある友人のお話です。<br />
<br />
その友人は、以前に星野富弘さんの個展を観て「多くの支援者がいたからこんな事ができたのだ」と思っていたそうです。<br />
しかしある人から「それは違う。本人がしたいと願ったから実現できたのだ」と言われ、深く考えさせられたそうです。<br />
考えてみれば最初から支援者なんているはずもありません。<br />
本人が歩みだしたから周りの人が応援しようという思いになって実現できたのではないでしょうか。<br />
<br />
で、友人はその一言を聞いて障害者の施設を出たのですが、現在、縁あって結婚をし子どもを授かっています。<br />
もし結果だけを見ていたら、今頃施設でいろんな言い訳をしながら愚痴っているのではないでしょうか。<br />
<br />
思えば、僕自身も長い間結果だけをみてうらやましがったり、できない理由を山ほど並べて自分に言い訳をしていました。<br />
しかし何にも変わりませんでした。<br />
つたないけれども、傷つくかもしれないけれどもありのままの自分から一歩歩み始めることが大切ではないでしょうか。]]></content></entry><entry><title>伝わって初めて成り立つ</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=803883" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=803883</id><issued>2008-03-20T20:04:07+09:00</issued><modified>2008-04-22T11:08:43Z</modified><created>2008-03-20T11:04:07Z</created><summary>テレビで人気の女性占い師の番組を見たことがありますか？

僕はあまり魅力を感じないので見ませんが、たまたま見た時、人気の理由がすこしわかったような気がしました。

もちろん本人のキャラクターが個性的で独特で面白いということが先ずあると思います。またそれ...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[テレビで人気の女性占い師の番組を見たことがありますか？<br />
<br />
僕はあまり魅力を感じないので見ませんが、たまたま見た時、人気の理由がすこしわかったような気がしました。<br />
<br />
もちろん本人のキャラクターが個性的で独特で面白いということが先ずあると思います。またそれを盛り上げる有名なタレントさんもいることも番組を面白くさせているのでしょう。<br />
<br />
しかしそれだけではないと僕は思うのです。<br />
<br />
人生訓などハッキリと人に意見をする番組ですが、もしどんなに正しいことを言っても、誰も聞いてもらえなかったり、無視されたりしていたら番組的には成立しないと思うのです。<br />
<br />
僕が見たとき、最初化粧をした高校生が平気で反社会的なことを口にしていたのですが、説教されてそのうちに涙を流したり、頷いたりして、改心している場面を映し出していました。いわゆる演出をしていたのですが、聞くはずのない人たちに伝わっているところに番組の面白さがあると思うのです。<br />
<br />
もっと言えば、たとえ間違った言葉でも、それを聞いて感動した人たちを設定する所にポイントがあると思うのです。<br />
<br />
考えてみればドラマでも映画でも、相手に伝わったような演出があって初めて面白いのです。クライマックスで勇気ある行動を見て涙を流すからいいのであって、伝わらなかったら単なるひとりよがりでしょう（笑）<br />
<br />
そう思うと「愛」「正義」「友情」という言葉は人間関係の上で成立する概念であることを改めて思うのです。伝わらなければ愛でも友情でもなく独善ではないでしょうか。<br />
<br />
・・・お互い気をつけましょうね(^_^;)]]></content></entry><entry><title>出遇い</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=753911" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=753911</id><issued>2008-02-14T00:04:51+09:00</issued><modified>2008-02-13T15:04:51Z</modified><created>2008-02-13T15:04:51Z</created><summary>暁烏　敏（あけがらすはや・石川県白山市）という方をご存知でしょうか？

宗門内での評価はいろいろあるようですが、地元では有名な方になります。

特に白山市では「暁烏敏賞」が創設されていて、白山市ＨＰによると「真宗大谷派の僧として近代的な仏教思想を広め、...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>人物</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[暁烏　敏（あけがらすはや・石川県白山市）という方をご存知でしょうか？<br />
<br />
宗門内での評価はいろいろあるようですが、地元では有名な方になります。<br />
<br />
特に白山市では「暁烏敏賞」が創設されていて、白山市ＨＰによると「真宗大谷派の僧として近代的な仏教思想を広め、日本の思想界に大きな足跡をのこした人物です。 白山市では敏の優れた功績をたたえ、伝統文化の継承発展と次代を担う青少年の健全育成を願って暁烏敏賞を制定し、毎年、国内外より懸賞論文を募集」しているほど有名な方です。<br />
<br />
で、その暁烏氏の戦時中の話なのですが、暁烏氏はよく憲兵の監視の下に講話をされていたということを聞きました。言うまでもなく当時は思想統制の厳しい時代状況で、有名だった暁烏氏の言論もまた注目され、当然の如く監視される対象だったのでしょう。<br />
<br />
ところがその監視をしていた憲兵が、その暁烏氏の講話に感動し、結果的に戦争が終わると同時に退職して、熱心な真宗門徒になったというのです。<br />
<br />
実はその人は当勝光寺の総代までしてくださった方で、名実共に立派な方だと聞いています。<br />
<br />
言論が制約されている中で、人の生き方を変えるような出遇いが成立していたというのは、私にとっては驚きのほかありません。<br />
<br />
ところがまだその後があって、今から６年程前でしょうか、その孫娘といっしょに『歎異抄』を喫茶店で読んでいるんですよね。嫁いでいて知らない中で出遇い、現在その場所に参加してくれているのですが、少なくともお祖父さんの感動的出遇いがなければ、いっしょに話し合うということもなかったと思うのです。つまりそれだけ憲兵の人と暁烏氏の出遇いが深かったということを思うのです。<br />
この話もまた歎異抄の会で彼女から聞いたもので、出遇いが孫の代まで影響しているというのはすごいと思いませんか？<br />
<br />
自分を越え、時代を超えるような、そんな感動的な出遇いをお互いしてみたいものですね。]]></content></entry><entry><title>今月のことば?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=753908" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=753908</id><issued>2008-02-14T00:02:47+09:00</issued><modified>2008-02-13T15:02:47Z</modified><created>2008-02-13T15:02:47Z</created><summary>「自分が可愛い」という思いを棄てない限り
　　　　　自分を変えることはできない
　　　　　　　　ー今月のことばからー

　
　私自身、生活の中で判断に迷ったり躊躇したりするときは、生活が脅かされる時であったり、人から悪く思われそうな時とか嫌な思いをしそ...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>雑感</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[「自分が可愛い」という思いを棄てない限り<br />
　　　　　自分を変えることはできない<br />
　　　　　　　　ー今月のことばからー<br />
<br />
　<br />
　私自身、生活の中で判断に迷ったり躊躇したりするときは、生活が脅かされる時であったり、人から悪く思われそうな時とか嫌な思いをしそうな時です。<br />
言い換えれば「保身」ということですが、それがいつも判断を鈍らせているように思います。<br />
<br />
それは私だけではなく、政治家で公約通りできなかったり、自分の意見が言えなくて党に従ったりするのを見聞しますが、多くに人がこの保身なのです。<br />
<br />
ある先生が市民運動に参加をしていたときに、門徒さんから「そんな運動を続けているのなら手次を変わる（門徒を辞める）」と言われて、（生活基盤がなくなることを恐れて）自分の信念が揺れたことを正直にお話してくださったことがありました。<br />
<br />
この保身、つまり自分が可愛いという気持ちが、いつも私だけでなくいろんな人を悩ませます。<br />
<br />
しかし結論から言えば、一歩踏み出してしまえばいいのです。<br />
踏み出せば、必ず違う世界が広がります。]]></content></entry><entry><title>老人ホームから</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=753903" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=753903</id><issued>2008-02-13T23:56:36+09:00</issued><modified>2008-02-13T14:56:37Z</modified><created>2008-02-13T14:56:36Z</created><summary>70代80代の歎異抄の会をしている仲間の1人ですが、昨年秋に1人暮らしということもあって自ら進んで老人ホームに入られました。

その人からいろんな話を聞かせていただくのですが、先日は「偉い人や威張っている人は早く呆ける」と感じたそうです。

というのも施設の...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>雑感</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[70代80代の歎異抄の会をしている仲間の1人ですが、昨年秋に1人暮らしということもあって自ら進んで老人ホームに入られました。<br />
<br />
その人からいろんな話を聞かせていただくのですが、先日は「偉い人や威張っている人は早く呆ける」と感じたそうです。<br />
<br />
というのも施設の中ではいろんな行事やらレクリェーションなどをするのですが、偉い人はなかなか輪に入ってこないというのです。<br />
<br />
ある人は校長先生経験者で誘っても「そんなくだらないことはできん」と断るのだそうです。<br />
<br />
すると施設という所は何にもしなくても考えなくても一日が過ぎるので、する気がなくても食事は口の中まで運んでくれるし、ましてや「今日の食事は何にしよう」などと考えなくてもいいわけです。<br />
<br />
したがって自分の世界だけでいるから刺激がないのでしょう。一年もすると廃人のようになるのだそうです・・・・特に至れり尽くせりの施設では。<br />
<br />
自分の世界に執着すると・・・・なんか考えさせられますね]]></content></entry><entry><title>お礼をとげる</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=753900" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=753900</id><issued>2008-02-13T23:55:05+09:00</issued><modified>2008-02-13T14:55:06Z</modified><created>2008-02-13T14:55:05Z</created><summary>北陸あたりはお内仏（仏壇）にお参りすることを「お礼をとげる」と言います。
最初は何気なく聞いていたのですが、すごい言葉だなぁと最近感じるのです。

普通お仏壇に参るときは、亡くなった人に対して手を合わせたり、お願いしたりするイメージがありますが、それは...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>雑感</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[北陸あたりはお内仏（仏壇）にお参りすることを「お礼をとげる」と言います。<br />
最初は何気なく聞いていたのですが、すごい言葉だなぁと最近感じるのです。<br />
<br />
普通お仏壇に参るときは、亡くなった人に対して手を合わせたり、お願いしたりするイメージがありますが、それはこちらから仏さんに向かって祈るということだろうと思うのです。<br />
しかし「お礼をとげる」ということは、たとえ出合った現実がどんなに厳しくても仏さんからの呼びかけであり、促しではないかと受け取った言葉だと思うのです。つまり方向としては前者と比べて反対です。<br />
<br />
考えてみれば悩んだり問題を抱えるということは、大変な思いをしますが、自分の生き方を問い尋ねている時だと思うのです<br />
いわば「お前の生き方はこれでいいのか？」と私を揺り動かす時なのでしょう。<br />
その機会を通して人生の意義に目覚める時、その現実は単なる出来事ではなく、大事な仏縁であり、そこで「お礼をとげる」という行為が生まれるのではないでしょうか。<br />
<br />
そう思うと日常生活の言葉として「お礼をとげる」ということが言われている北陸というのはとんでもない土地だと思います。<br />
<br />
でも・・・まだまだあるんですよね実は。]]></content></entry><entry><title>最初から意地悪ばあさんはいない</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=734684" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=734684</id><issued>2008-01-24T14:07:29+09:00</issued><modified>2008-01-24T05:07:29Z</modified><created>2008-01-24T05:07:29Z</created><summary>人は縁によって、状況によってそれぞれの人に成っていくのだと思うのです。

あるお家のおばあさんですが、若い頃にご主人を亡くし、女手ひとつで子どもを育ててきました。
当然母親だけでなく父親の役割をしなければならず、がむしゃらに生きてきたようです

この前...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>雑感</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[人は縁によって、状況によってそれぞれの人に成っていくのだと思うのです。<br />
<br />
あるお家のおばあさんですが、若い頃にご主人を亡くし、女手ひとつで子どもを育ててきました。<br />
当然母親だけでなく父親の役割をしなければならず、がむしゃらに生きてきたようです<br />
<br />
この前お参りに行った時に「本当は今のお母さんたちのように綺麗な洋服を着て化粧していたかったんだけど、できなかったんです。<br />
そんなことをしている余裕がなかった。生活のために朝から晩まで働いてきたんですもの・・・・・でも子どもたちからすると男か女か分からないような身なりで・・・・子どもたちを叱り飛ばしてきましたから・・・・今となれば申し訳ない気がします」と仰られていました。<br />
<br />
このおばあさんは好き好んで化粧っ気のない生き方をしてきたわけではなく、状況がその人をその人にしたのではないでしょうか。<br />
<br />
同じように意地悪ばあさんも最初からいじわるだったわけではなく、そうしなければならない理由があったのでしょう。<br />
<br />
日常生活の中では、つい表面的にしか人を見ませんが、ふとしたご縁でその人の背景を垣間見た時、そんなことを感じるのです。]]></content></entry><entry><title>人間ってやつは</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=734682" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=734682</id><issued>2008-01-24T14:06:24+09:00</issued><modified>2008-01-24T05:06:24Z</modified><created>2008-01-24T05:06:24Z</created><summary>某大学の医学部の先生とお話をしたことがありました。

医学部といってもその先生はお医者さんではなく宇宙環境による人間の身体を研究しておられる方なのです。

例えば宇宙に行ったら人間の身体の変化（宇宙酔いに代表される神経系統など）とか、無重力での人間の適...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>雑感</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[某大学の医学部の先生とお話をしたことがありました。<br />
<br />
医学部といってもその先生はお医者さんではなく宇宙環境による人間の身体を研究しておられる方なのです。<br />
<br />
例えば宇宙に行ったら人間の身体の変化（宇宙酔いに代表される神経系統など）とか、無重力での人間の適応能力とか・・・<br />
また宇宙生活での身体の変化を研究しておられるようでした。<br />
<br />
その先生とご法事で何度かお会いしたのですが、曰く宇宙ステーションでの人間の身体の変化ということは、遅かれ早かれ適応していくのではないかと言われるのです。<br />
ところが狭い宇宙ステーションでの人間関係のストレスによる身体の変化はいかんともしがたいといわれるのです。<br />
つまり人間関係をいかに良好に保つかということは宇宙医学にとっても大きな課題だというのです<br />
<br />
人間の英知を結集させた場所でも最後は人間関係なのかと思うと・・・面白いですね。]]></content></entry><entry><title>浄土・極楽</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=734681" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=734681</id><issued>2008-01-24T14:04:49+09:00</issued><modified>2008-01-24T05:04:49Z</modified><created>2008-01-24T05:04:49Z</created><summary>先代の住職の話です

ある真夜中に一本の電話がかかってきました。電話の相手は以前勝光寺の近くに住んでいて、よくお寺で遊んだ幼馴染からでした

何十年ぶりに聞く友達の声に驚き、話しているときに向こうからなぜ電話をしてきたのかということを話し始められたそう...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>仏教</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[先代の住職の話です<br />
<br />
ある真夜中に一本の電話がかかってきました。電話の相手は以前勝光寺の近くに住んでいて、よくお寺で遊んだ幼馴染からでした<br />
<br />
何十年ぶりに聞く友達の声に驚き、話しているときに向こうからなぜ電話をしてきたのかということを話し始められたそうです<br />
<br />
その幼馴染の人は弁護士で、苦労に苦労重ねた末に今の地位を築き、また子どもも自立し、さあこれからというときに奥さんを癌で亡くされたのです。以来その現実が引き受けられずに、自分の心を持て余すようになってしまいました。その時に、ふと昔お寺で遊んだことを思い出し、思わず電話されたそうです。<br />
それがご縁で前住職との交流が再開したのですが、その方が「自分は苦労して頑張って生きてきたけれど、本当に何をしたかったのか？と妻を亡くして初めて思った」と告白されたそうです<br />
<br />
人はそれぞれの歩みの中で、自分は本当に何を求めていたのか、何を願っていたのかと、ふと立ち止まる時がありますが、幼馴染の方の場合奥さんの死がそういう思いにさせたのではないでしょうか。<br />
<br />
実は仏教において「浄土」とか「極楽」とか説かれていますが、ある意味人が本当に求めているものを言い当てた言葉だと思うのです<br />
現在は浄土とか極楽というと手垢がついてしまって本来とはかけ離れていますが、本来意識するしないに関わらず、人が本当に願っている世界を「浄土・極楽」と表現されたのではないでしょうか<br />
しかも浄土を求めていた自分に気がついていく過程を『観経』の韋提希（いだいけ）として説かれているのはそのことを表しているように思います。<br />
<br />
まぁとにかく自分が本当に何を求めていたのかを知る（自分を知る）ということは確かな歩みの一歩になることだけは間違いありません。]]></content></entry><entry><title>今月のことばより?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=734679" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=734679</id><issued>2008-01-24T13:59:39+09:00</issued><modified>2008-01-24T05:00:08Z</modified><created>2008-01-24T04:59:39Z</created><summary>人の為にすると自分が苦しむ」−掲示板・今月のことばより−


僕の友達でマメな子がいるのですが、例えば誰かが誕生日だとするとメールでお祝いをしてあげたり、プレゼントを買ってあげたり・・・
また友達に何かあると心配をし、こまめに動くいい奴なのです。

とこ...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>お寺</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[人の為にすると自分が苦しむ」−掲示板・今月のことばより−<br />
<br />
<br />
僕の友達でマメな子がいるのですが、例えば誰かが誕生日だとするとメールでお祝いをしてあげたり、プレゼントを買ってあげたり・・・<br />
また友達に何かあると心配をし、こまめに動くいい奴なのです。<br />
<br />
ところがせっかくいい事しているのですが、もし相手がお礼を言わなかったり、意に反することをするとその途端にグチ愚痴出てしまうのです。<br />
<br />
それは友人だけのことではなく、私たちも同じように思い通りの結果が得られないと相手を責めたり、時には憎んでしまいます。<br />
<br />
それは何故でしょうか・・・<br />
<br />
人のためにすると心の奥底で期待をしてしまうからではないでしょうか。期待をするがゆえに、思い通りにならないと許せないのです。<br />
<br />
極論すると、思い通りの人間なんていないから、自分以外は許せなくなるのです。<br />
<br />
それは言うまでもなく、私の意に沿わないというだけのことで、決してまわりが悪いわけではありません。<br />
<br />
もしかして孤独感というのも自分の思い通りにならないと言うだけなのかもしれません。<br />
<br />
お互い自分をみつめていきたいものです。]]></content></entry><entry><title>自由とわがままのちがい?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=724382" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=724382</id><issued>2008-01-13T00:39:33+09:00</issued><modified>2008-01-24T05:00:52Z</modified><created>2008-01-12T15:39:33Z</created><summary>自由は辞書を見ると「心のままであること。思う通り。自在」「責任をもって何かをすることに障害（束縛・強制など）がないこと」（広辞苑）と書かれています

以前、喫茶店での会で友人が「束縛に耐えられない」と親を批判していたことがあったのですが、聞くと、結婚の...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>雑感</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[自由は辞書を見ると「心のままであること。思う通り。自在」「責任をもって何かをすることに障害（束縛・強制など）がないこと」（広辞苑）と書かれています<br />
<br />
以前、喫茶店での会で友人が「束縛に耐えられない」と親を批判していたことがあったのですが、聞くと、結婚のことから門限のこと、服装に至るまでいちいち口を挟んでくるのだそうです。<br />
<br />
その友だちは「私には自由がない」ことを口にしていたのですが、仲間から「家を出ればいいじゃないか」と指摘されて本人はハッと自分に気がついたのでした。<br />
<br />
指摘どおり、もう社会人だから独り暮らしをすることは可能です。しかも独り暮らしをすれば親の束縛からある程度解放されるでしょう<br />
<br />
しかし、今までそれをしてこなかったのは親といた方が楽だからです。親といれば食事のことからすべて面倒を見てもらえるし、お金も自由になります。<br />
つまり友だちは無意識に親といることを選んでいた自分に気づいたのでした。<br />
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自分で選んだという自覚がないから、現実に対してグチっぽくなったり、束縛されていると感じてしまうのではないでしょうか。<br />
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私も周りのせいにしたり環境のせいにしたりしてできない理由意を並べ立て、自分の境遇を悲観していました。<br />
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しかし友人と同じように誰も束縛していたわけではありません。言うならば自分の思いが自分を束縛していただけなのです。<br />
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実際今日まですべて自分が選んできたのです。「我慢」してきたというかもしれませんが、物事をしないと最後に決めたのは自分なのです。<br />
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そのことに気が付かないまま、周りに責任を押し付けている生活を地獄というのかもしれません。<br />
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どんな境遇でも選んだという自覚がある人は「自由」であり「自在」なのです。]]></content></entry><entry><title>自由とわがままのちがい</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=724343" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=724343</id><issued>2008-01-13T00:36:45+09:00</issued><modified>2008-01-24T05:00:27Z</modified><created>2008-01-12T15:36:45Z</created><summary>自由とわがまま、どちらもしたいことをすることでは共通なのですが、僕は大きな差異（ちがい）があると思っています。

言うまでもなく人は関係性を持って生きています。わがままはしたいことをただするだけなのです。
自由はその周りの人に対して「伝える」ということ...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>雑感</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[自由とわがまま、どちらもしたいことをすることでは共通なのですが、僕は大きな差異（ちがい）があると思っています。<br />
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言うまでもなく人は関係性を持って生きています。わがままはしたいことをただするだけなのです。<br />
自由はその周りの人に対して「伝える」ということがあるように思います。<br />
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例えば「アメリカに行きたい」ということがあれば、わがままは勝手にすることをいいますが、自由はなぜ行きたいか、その気持ちを周りに伝えるのだと思うのです。<br />
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おもしろいものでやりたいことをやろうとすると、反対する人が現れるんですよね。状況的に危険だとか、経済的に大変だとか、いろんな理由をつけながら・・・・<br />
でももし自身が周りの反対で止めるならば、初めからしたかったわけではないのでしょう。<br />
そう思うと周りからの反対は自分の気持ちの確認でもあるのです。本当にしたいことやわかってほしいことは気持ちが途切れることがありません。<br />
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しかも不思議なことに相手に自分の気持ちが伝わると、一番反対していた人は逆に応援してくれます。<br />
考えてみれば一番反対する人は親だったり家族だったりするわけですから・・・一言で言えば一番心配してくれる人なのです。<br />
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どちらかというと私自身は「できない理由」を百ほど並べ周りの責任にしていました。そんなことを百年していても変わりません。しかも自分が伝えることもしていなかったわけですから・・・<br />
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でも些細なことでも周りの協力のもとやりたいことができた時、一人では決して味わえないものがあります。]]></content></entry><entry><title>今から　ここから</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://column.shokouji.com/?eid=724267" /><id>http://column.shokouji.com/?eid=724267</id><issued>2006-06-13T00:31:41+09:00</issued><modified>2008-01-12T15:33:14Z</modified><created>2006-06-12T15:31:41Z</created><summary>今年の３月に読売新聞でひとりの教師が紹介されていました。

その先生は宮本先生と言って中学時代オール１の成績で、まったく勉強ができなかったという異色の先生なのです。

その先生が２０才を超えてたまたま見た「アインシュタインのビデオ」に深く感動し、もっと...</summary><author><name>ユウキ</name></author><dc:subject>人物</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[今年の３月に読売新聞でひとりの教師が紹介されていました。<br />
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その先生は宮本先生と言って中学時代オール１の成績で、まったく勉強ができなかったという異色の先生なのです。<br />
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その先生が２０才を超えてたまたま見た「アインシュタインのビデオ」に深く感動し、もっと知りたい、もっと学びたいと強く感じ、定時制高校に入学するために小学校の勉強（九九）から始めたそうです。<br />
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結果的に２７才で名古屋大学に入学し、マスター・ドクターと歩み、そのまま研究者の道をと思ったそうですが、落ちこぼれだった自分だからできることがあるのではないか、と昨年教師の道を歩まれたそうです。<br />
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写真では生徒と楽しそうに話をされる場面が写っていたのですが、その記事を読んで僕自身とても感動しました。<br />
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どちらかというと自分自身は結果だけを見て、できない理由を百以上並べ立て、「あのせいでできなかった」「こんな状況だからできなかった」と言い訳ばかりしていたと思うのです。<br />
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そんなことをどれだけ言っても何にも変わりません。<br />
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どんな自分でも、どんな状況でも、今からここから、一歩踏み出すことが大事ではないかと思うのです。<br />
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そんなことを改めて思わせられて記事でした。]]></content></entry></feed>