今から ここから

今年の3月に読売新聞でひとりの教師が紹介されていました。

その先生は宮本先生と言って中学時代オール1の成績で、まったく勉強ができなかったという異色の先生なのです。

その先生が20才を超えてたまたま見た「アインシュタインのビデオ」に深く感動し、もっと知りたい、もっと学びたいと強く感じ、定時制高校に入学するために小学校の勉強(九九)から始めたそうです。

結果的に27才で名古屋大学に入学し、マスター・ドクターと歩み、そのまま研究者の道をと思ったそうですが、落ちこぼれだった自分だからできることがあるのではないか、と昨年教師の道を歩まれたそうです。

写真では生徒と楽しそうに話をされる場面が写っていたのですが、その記事を読んで僕自身とても感動しました。

どちらかというと自分自身は結果だけを見て、できない理由を百以上並べ立て、「あのせいでできなかった」「こんな状況だからできなかった」と言い訳ばかりしていたと思うのです。

そんなことをどれだけ言っても何にも変わりません。

どんな自分でも、どんな状況でも、今からここから、一歩踏み出すことが大事ではないかと思うのです。

そんなことを改めて思わせられて記事でした。

自分を出す

先日青木悦さん(教育ジャーナリスト)の講演に行ってきたのですが、その中で青木さんへの相談事が、ここ2,3年で劇的に変化してきたそうです。

今までは登校拒否・家庭内暴力など子どもさんの相談事が多かったのですが、ここ2,3年で20代・30代の子どもさん!?に関する相談事が多いのだそうです。

今まで順風満帆にいっていた子が、社会人になってしばらくして会社を辞め、家にずっと引きこもってしまい困り果てた親御さんが相談に来るそうです。

そういう相談に来られる親御さんの口から必ずといっていいある言葉が出てくるのだそうです。

「今までは何も問題がなかった子なのに・・・・」

青木さんはその言葉を聞くと「親に問題がないように思わせるためにどれだけ多くの我慢をしてきたか・・・あなたに合わせてどれだけ自分を犠牲にしてきたか分りますか?」と尋ねられるのだそうです。

ある意味家庭内暴力でも親御さんの前で自分を出せた子は幸せなのかもしれません。

かえって自分の居場所がなくて、そのまま大人になってしまうことのほうが大変なのではないでしょうか。

いま時代社会を垣間見るとき、逆に自分が自分でいることの方が難しい中で、改めて「自分を出す(真の自己確立)」ことの大切さを思います。

つまり自分を出すということは自分で居場所(関係)を作ることでもあり、ありのままに生きようという意欲でもあると思っています。

自己化

太っている人ではないのですが、彼氏から「太ってるね」と言われてから、過激なダイエットに走った女性がいました。

結果的には拒食過食を繰り返し、からだを壊してしまいました。

この女性のように他人のひとつの見方なのですが、それが自分の物差しになってしまう・・・つまり自己化してしまうということがあります。

僕の友人で小さい頃から「お前はきれいだ、お前は美しい」と親から言われ続けて育った人がいました。

その人いわく「現実を知ったのは小学6年生よ」と笑いながら話してくれたのですが、思わず「そんなにかかったの?」と言ってしまって叩かれたのですが、(笑)とにかく目が覚めたことはよかったと思っています(素敵な女性ですので誤解のないように)

ある意味仏教とはそれぞれのものさしを自己化している私たちに「それでいいがかえ?」と問うものではないかと思っています。

優しくできないときがある

一時期血液型で人の行動形態や性格を観察した番組が流行ったことがありました

番組を見ているといかにもその血液型らしい行動をするので、そう思われた方も多いのではないでしょうか。

血液型に関しては否定も肯定もしませんが、ちまたで、やさしい人とか誠実な人、几帳面、マイペース、おおらか、わがままな人等々といいますが、仏教からすればそういう人間はいません。正確に言えば「そういう時もある」ということだと思います。

以前ショッピングセンターで高校時代の同級生に遇ったことがありました。子ども二人を抱えて格闘していたのですが、声をかけると懐かしい顔で(ガラッと優しい顔で)応えてくれて・・・お母さんとして頑張ってるんだなぁという思いを持ったことがありました。

たとえどんな几帳面な人もやさしい人もおおらかな人も、子どもを2、3人抱えていたら決してそんなわけにはいきません。

また逆に日頃からイライラしている人がいたら、それにはそういう理由があるのでしょう。

つまり人は状況(縁)によって「自分」という花を咲かせているのです

したがって時には弱音を吐くし、思わぬ自分を出してしまうこともあるのです。でもそれも自分なのです
大事なことは出てしまった自分をきっかけにして自分を深めることではないでしょうか。

摂取不捨の真言

「こころ」という喫茶店で現在20代30代の人たちを中心に『歎異抄』を読み、本音で語り合う会をしていますが、F君というのは最初の時のメンバーになります。

彼は家庭環境から中学高校時代警察にお世話になったり、話を聞くといろいろあるようです。

その彼が縁あって京都にある大谷専修学院(大谷派教師資格取得のための学校・1年間全寮制)に入学したのですが、その生活を通して彼自身変わっていったようです。

彼いわく「俺は世間から後ろ指を差され、捨てられてきたけれど、捨てられない世界があった。俺の居場所があった」のだそうです。

その彼から「ここ(こころ)でみんなと語り合っていることが僕にとって実はすごいことなんですよ」と笑いながら話してくれたことが今でも胸に響いているのですが、確かに彼の家庭環境を考えるともしかしたらアウトローの道もあったと思うのです。

しかし専修学院という場所で言葉に出遇い、人に出遇ったことが、彼を現在の彼にしたのではないかと思っています。

その彼の話を聞いていると「摂取不捨だから真言」なのだということを思うのです。真実の言葉は絶対捨てないという内容だと思うのです。

摂取不捨の真言

北海道にある北星余市高校というのは全国でも珍しく、高校中退者や不登校者を受け入れている学校です。

近年その卒業生が先生として赴任してきたということで、マスコミに取り上げられ、昨年はその先生の格闘している姿をドラマ化し反響を呼びました。私もその先生の本やドラマを見ていろいろ感じたことです

私自身その先生に限らず、余市高校の先生方が生徒たちを決して見捨てない、という姿勢に深く感銘したのですが、例えば「タバコ禁止」ということでも、普通はある程度のところであきらめてしまうことがあると思いますが、生徒から逃げずに分かってもらえるまで伝えようとします。

ドラマでもある親に捨てられた子どもが余市高校を抜け出し再度家に帰ろうとして東京まで行くのですが、しかし事情があり母親から拒否されるわけです。捨てられたという思いをもったその生徒はやけになり街をフラフラ徘徊します。

しかしお金がなくなり残り少ないお金を探していると、余市から何も言わず東京までついてきた先生のメモを見つけます。
そのメモには「別れたところで待っている」と書かれてありました。それを見てそんなバカなと思いつつもその場所まで行ってみると先生がいるわけです。
「どうして・・・もし僕がメモを見なかったらどうするんだ」と問うと
「俺は待ちたかったから待ってたんだ」と答えます。

実はその先生も同じように見捨てないで声をかけ続けてくれた先生がいたのです。そしてその話をするわけです。
「オレもそうしてもらったんだ・・・」
するとその生徒は初めて自分のことを語り始めます。
今まで何を感じてきたのかを語るのです。
二人はお互い思いを語り続け、結果的二人は余市へ戻るというところで終わるのですが、まぁドラマとはいえ近いモデルケースはあっただろうと想像しています。

で、思うことは捨てないということではじめて人は立ち上がれるのではないかと思うのです。

教育の問題だけでなく、病気やらいろんな出来事で打ちひしがれることがあります。そこで本当に立ち直れるのは「捨てない」という世界に出合うことではないかということを思うのです。

嫌いな自分に深められる

アルコール依存症だった人のお話を聞かせていただいたことがありました。

その人は小さい頃から涙もろく、ちょっとしたことで涙が出てしまうのだそうです。

それを人からからかわれたり、親からも「男は泣くものではない」と言われ育ってきました。

しかしそれでもちょっとしたことで人前で涙を出してしまう気の小さい自分が嫌でいやでたまらなかったそうです。

その自分を唯一忘れさせるもの・・・・それがお酒だったのでしょう、浴びるように呑まれたそうです。

お酒を呑むだけならまだいいのですが、強い自分でありたいという願望から人にわけもなく絡んだり、よくケンカをし・・・・
当然人格が変わるのですから、そのうちに誰も相手にしなくなりました。

しかし5年前にこれではいけないと本人が気付き、お寺に通い始め、そこでアルコール依存症の会を紹介してもらったり、聞法会に出席をしはじめました。
その流れの中で私もお会いしたことです

その人は自分を変えたい、強い自分になりたいと真剣に言われていました。

私自身、その人の真摯な気持ちに深く感銘をしたのですが、きっと今のように自分と真向かいになり続ければ、いろんな人や言葉に出会えるだろうなぁと感じたことです

現に5年間も自宅から車で30分ほどの場所に通って聞法し、最近ではあちこち聞法して歩いているのだそうですが、その原動力は「自分を変えたい」「生まれてきて良かったと言いたい」その思いに他なりません。

果たして嫌いな自分を変えられるかどうかは分かりませんが、少なくとも嫌いな自分に自分が深められることがあるように思うのです。

つまり受け止められない自分があるからこそ、人はその自分に育てられのではないでしょうか。

その全体の歩みに気づく時、ありのままの(嫌いなままの)自分をありのままに生きるということが始まるように思います。

忘れられない名刺

今から10年ほど前にある年配の方から名刺を頂いたことがありました

その名刺は3つほど肩書きがあったのですが、すべて「元○○○・元○○○」と書いてあったのです。
もらったときは正直なところ・・・その人が哀れに思えてなりませんでした。

しかし現在はその気持ちがなんとなく分かるのですが(笑)
というのは、その人は自分がここにいるといいたかったのではないかと思うのです。自分であることの存在証明をしたかったのではないかと思うのです。

しかし問題は「ありのままの自分」ではなかったということではないでしょうか。

それがなかなかできずに「元○○○・元○○○」という名刺になったのでしょう。現在の自分ではなく過去の栄光の自分であったというところになんともいえない思いがよぎります。

実はこれは名刺をくださった人だけでありません。私たちもまた同じ問題を抱えています。

聖徳太子の17条憲法に

「我れ必ずしも聖に非ず 彼れ必ずしも愚に非ず、共に是れ凡夫(ただびと)のみ」という言葉があります

僕はこの凡夫を「ただびと」と読んでいることが気に入っているのですが、人はありのままの「ただびと」になれないのです。

ただびとになれないからいろんなことに苦しんだり悩んだりしているのではないでしょうか。

しかし仏教はどこまでも「ただびとに帰れ」と呼びかけているのです。


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