優しくできないときがある

一時期血液型で人の行動形態や性格を観察した番組が流行ったことがありました

番組を見ているといかにもその血液型らしい行動をするので、そう思われた方も多いのではないでしょうか。

血液型に関しては否定も肯定もしませんが、ちまたで、やさしい人とか誠実な人、几帳面、マイペース、おおらか、わがままな人等々といいますが、仏教からすればそういう人間はいません。正確に言えば「そういう時もある」ということだと思います。

以前ショッピングセンターで高校時代の同級生に遇ったことがありました。子ども二人を抱えて格闘していたのですが、声をかけると懐かしい顔で(ガラッと優しい顔で)応えてくれて・・・お母さんとして頑張ってるんだなぁという思いを持ったことがありました。

たとえどんな几帳面な人もやさしい人もおおらかな人も、子どもを2、3人抱えていたら決してそんなわけにはいきません。

また逆に日頃からイライラしている人がいたら、それにはそういう理由があるのでしょう。

つまり人は状況(縁)によって「自分」という花を咲かせているのです

したがって時には弱音を吐くし、思わぬ自分を出してしまうこともあるのです。でもそれも自分なのです
大事なことは出てしまった自分をきっかけにして自分を深めることではないでしょうか。

摂取不捨の真言

「こころ」という喫茶店で現在20代30代の人たちを中心に『歎異抄』を読み、本音で語り合う会をしていますが、F君というのは最初の時のメンバーになります。

彼は家庭環境から中学高校時代警察にお世話になったり、話を聞くといろいろあるようです。

その彼が縁あって京都にある大谷専修学院(大谷派教師資格取得のための学校・1年間全寮制)に入学したのですが、その生活を通して彼自身変わっていったようです。

彼いわく「俺は世間から後ろ指を差され、捨てられてきたけれど、捨てられない世界があった。俺の居場所があった」のだそうです。

その彼から「ここ(こころ)でみんなと語り合っていることが僕にとって実はすごいことなんですよ」と笑いながら話してくれたことが今でも胸に響いているのですが、確かに彼の家庭環境を考えるともしかしたらアウトローの道もあったと思うのです。

しかし専修学院という場所で言葉に出遇い、人に出遇ったことが、彼を現在の彼にしたのではないかと思っています。

その彼の話を聞いていると「摂取不捨だから真言」なのだということを思うのです。真実の言葉は絶対捨てないという内容だと思うのです。

泣きたい時には泣こう

近所の子どもたちや我が子を見ていると、つくづく思うことがあります。

あの子たちは強いなぁーと

子どもたちのケンカは大人みたいに手加減をしません。本気で相手の人格を口撃したり、時には殴りあったりすることがあります。勝負がつくと泣いたりわめいたりするのですが、しばらくするとケンカしていた者同士遊んでいるんですね。

大人はこのていの人間関係に限らず、嫌なことがあると、いつまでも根に持ったり、感情的に引きずられることがあります。

それはなぜかと言えば、泣きたい時に泣いたり、わめいたりしないからではないかと思うのです。
そのときそのときの自分を出さないから、根に持ってしまうのです。

できれば人に合わせたりすることなく、ありのままの自分を表現したいものです。

今月のことば

「責任転嫁したり愚痴を言ったりしてしまうのは  
現実が引き受けられないからである 」

ー勝光寺ホームページ・今月のことばよりー


僕には子どもが3人いますが、2番目の娘(3才)は上のお兄ちゃんにちょっかいを出したり、下の子をいじめたりと毎日忙しそうです。

その娘を見て教えられることがあるのですが、お兄ちゃんから怒られたり、嫌なことをされると、そのストレスはどこへ行くかというと、下の子にいってしまうのです。

つまり、決して強いお兄ちゃんにいかず、弱い妹の(出しやすい)ところに出てしまうのです。

実はこれは道理で、大人もそうなのです。つい子どもに言い過ぎてしまう時がありますがよくよく問い尋ねれば、子どもにあたってるだけということもあるのではないでしょうか。

いま社会問題になっているDV(ドメスティック・バイオレンス・配偶者の暴力)も社会の現実に耐えられないストレスを妻や子に暴力という形で発散しているだけなのです。

池田小学校のT被告も屁理屈をつけていますが、結局受容できないやり切れない思いを小さいいのちにぶつけただけなのです。

確かに現実は厳しくやりきれないことも多いのですが、できればそのエネルギーを自分を深めるチャンスにしたいものです。

問題が言葉に遇わす

あるご法事に行った時のことです。

そのお家は十数年前に子どもさんを亡くされました。

お勤めが終わった後、奥さんから当時某新聞にM先生のコラムが連載されていて、その最初の数ヶ月の部分を手に入れて欲しいというご依頼を受けました。

本人が言うにはその先生の言葉に非常に感銘し、見つけてからはストックしているけれども、どうしてもその前の部分が読みたいというのです。

当時私は小松に来たばかりで、右も左も分からず、考えた挙句直接先生のところにお願いに行くことにしました。

先生に事情を説明すると快くお引き受けいただき、後日その日までの全部をコピーして送ってくださったことです。

私はこれらのことを通して教えられたことがあります。

できればこういった出来事には遭いたくありませんが、しかしその事実が先生の言葉に遇わせたのではないでしょうか。

逆に順風満帆であれば、M先生の言葉は目にも留まらなかったでしょう。いわばが悲しみが本物の言葉に遇わせたのだと思うのです

映画を見ているとき、本を読んでいるとき、思わぬ言葉が飛び込んでくることがありますが、そんな感覚で先生の言葉が入ってきたのではないでしょうか。

不思議

先日年配の門徒さんが「若さんおるかー」と尋ねてこられました。

お聞きすると、奥さんとのケンカで教えられたことがあったというのです。
 「あることがきっかけで言い合いになり、今までのことや生活すべてにわたって徹底的に攻められ、それで傷ついて一日寝られなかった」
そうです。

それで「朝方思い知らせれたことは、過去に校長職に就き辞めてもなおそういう思いから離れていなかった自分がいた」

 「凡夫という言葉を聞いても頭で理解していていただけで、どこかで校長をしていた自分から離れなかった。妻の言葉を聞いて、いま凡夫とはほかならぬ私のことだと気づかされ、先ほど妻に謝ってきたところだ」と。

それを聞いて私は朝から感銘を受けたのですが、普通傷つけられた人に、謝るということは起きませんが、この年配の方は妻の言う通りだと逆に頭を下げたのです。

で、僕にお礼を言いに来られたのですが、逆に恐縮してしまったことです。

ただ聞いた感想として、佛教で言う「不思議」というのは手から鳩を出すような不思議ではなく、起きた現実を指すのではないかと思うのです。

つまり頭を下げたことがなかった人が仏法を通して心から奥さんに懴悔されたという事実こそ不思議というのだと思うのです。

寺小屋フォーラム

先日の22日に同じ小松にある本覚寺というお寺で「寺小屋フォーラム」が行われ、参加しました。

主催は小松の商工会議所内にある「こまつファッションタウン推進協議会」でこれから小松の街作りを考えたときに、お寺という存在が欠かせないということで企画されました。

その趣旨を伺った時非常にうれしい気持ちでいっぱいになりました。というのもお寺にいる私たちも街づくりという視点では同じことを思っていたからです。

そもそも真宗のお寺というのは、他のお寺とは大きな違いがあります。例えば東大寺にしても永平寺にしても儀式執行の場であり修行の場に対して、真宗のお寺は畳敷きの多いところからも道場形式で談合(話し合い)のために作られたものです。

御文(おふみ・蓮如作)を中心に生き方を話し合ったこともあるでしょうし、村の決まりごとや、政も含め生活の中に密着したものが道場であり、真宗のお寺の原型なのです

しかしながら今日の状況を見たときに、「何のためのお寺か」という思いがいつも頭をよぎります。つまり存在意義が見えない時代になっています。

本当に必要なのかどうかを含めて話し合いをすべきときに、街の方から「お寺」を尋ねてくださり、改めて話し合いの場を作ってくれたことに対してありがたいと感じた同時に今こそ場所を作っていくときだと感じたことです

これからも機会を作ってをお互い考えていきたいですね。

今月のことば

病気で心も病気になる人もいれば
病気で目覚める人もいる
             ー勝光寺今月のことばよりー


病気に限らず、苦しみの原因が 自分以外にあると思うときは現実を嘆き悲しんだり、場合によっては運命を呪うということもあるかもしれません。

しかし仏法によると苦の原因は自分にあると教えられます。

というのは健康に自信がある人ほど病気になると落ち込むように、今のいい状態がいつまでも続くという真の道理(老病死の道理)に暗い生き方が 、病気である自分を苦しめていると説くからです。

人はそのことに気がついたとき改めて現実と向き合うことが始まるのではないでしょうか。

鉄腕アトム

先日から息子が借りてきた鉄腕アトムを見ています。

手塚治虫のらしいといったら語弊がありますが、壮大で深い作品だと思いました。

小さいころ鉄腕アトムというと、10万馬力をはじめ7つの威力で悪いものをやっつけるというイメージしかありませんでした。

しかし内容はというと「人間との共存」をテーマに、どこで人間と通じ合えるかを模索する作品でした。

考えてみれば7つの威力があることは人間にとって脅威に他なりません。

また人間の心を持っているわけですから、いつどういう状況で襲われるかもしれないという不安もつきまとってきます。

つまり人間からするとアトムは恐怖の種にしかならないわけです。

したがってアトムはその人間たちに迫害を受け、ロボットゆえに差別されます。

しかしアトムはあの明るく元気なキャラクターでそれに立ち向かっていきます。時には悩みながら・・・・・

この作品を見ていると、人間っていったいなんだろう?と考えさせられます。

確かにロボットだけど、人間との共存という悩みを抱え生きているアトムに人間の本来の姿を重ねてしまうのは私だけではないと思います。

とにかく手塚治虫は異文化との接点をテーマにした作品で人間の課題を提示しているように見えました

友だちって??

青木悦さん(教育ジャーナリスト)の本の中で、青木さんの時代と現在とでは「友だち」の概念が変化しているのではないかという指摘をされています。

以前は「本当のことが話せる・言えないことを話せる」関係を親友と言っていたのに対して、最近は「自分を出し合わない」関係を友だちといっているのではないかというのです。

つまりトラブルもなく表面上うまくいっている関係なのでしょう。

この指摘には私自身覚えがあって、というのは高校時代自分を演じてきたことがあるからです。
たとえば先生に対してどういう自分になればいいのか、友達に対しても自分を合わせていたように思います。
今思えば自分に対して自信がなかったことや、人間関係に不安を抱いていたのではないかと思うのですが、とにかくしんどかったということを思います。

今もお坊さんらしい顔をしてしまうことがあるのですが(笑)案の定出会うことはできません。

できれば本当の自分を出し合える関係を創っていろんな人と出会って生きたいと思っているこのごろです


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