お礼をとげる

北陸あたりはお内仏(仏壇)にお参りすることを「お礼をとげる」と言います。
最初は何気なく聞いていたのですが、すごい言葉だなぁと最近感じるのです。

普通お仏壇に参るときは、亡くなった人に対して手を合わせたり、お願いしたりするイメージがありますが、それはこちらから仏さんに向かって祈るということだろうと思うのです。
しかし「お礼をとげる」ということは、たとえ出合った現実がどんなに厳しくても仏さんからの呼びかけであり、促しではないかと受け取った言葉だと思うのです。つまり方向としては前者と比べて反対です。

考えてみれば悩んだり問題を抱えるということは、大変な思いをしますが、自分の生き方を問い尋ねている時だと思うのです
いわば「お前の生き方はこれでいいのか?」と私を揺り動かす時なのでしょう。
その機会を通して人生の意義に目覚める時、その現実は単なる出来事ではなく、大事な仏縁であり、そこで「お礼をとげる」という行為が生まれるのではないでしょうか。

そう思うと日常生活の言葉として「お礼をとげる」ということが言われている北陸というのはとんでもない土地だと思います。

でも・・・まだまだあるんですよね実は。

最初から意地悪ばあさんはいない

人は縁によって、状況によってそれぞれの人に成っていくのだと思うのです。

あるお家のおばあさんですが、若い頃にご主人を亡くし、女手ひとつで子どもを育ててきました。
当然母親だけでなく父親の役割をしなければならず、がむしゃらに生きてきたようです

この前お参りに行った時に「本当は今のお母さんたちのように綺麗な洋服を着て化粧していたかったんだけど、できなかったんです。
そんなことをしている余裕がなかった。生活のために朝から晩まで働いてきたんですもの・・・・・でも子どもたちからすると男か女か分からないような身なりで・・・・子どもたちを叱り飛ばしてきましたから・・・・今となれば申し訳ない気がします」と仰られていました。

このおばあさんは好き好んで化粧っ気のない生き方をしてきたわけではなく、状況がその人をその人にしたのではないでしょうか。

同じように意地悪ばあさんも最初からいじわるだったわけではなく、そうしなければならない理由があったのでしょう。

日常生活の中では、つい表面的にしか人を見ませんが、ふとしたご縁でその人の背景を垣間見た時、そんなことを感じるのです。

人間ってやつは

某大学の医学部の先生とお話をしたことがありました。

医学部といってもその先生はお医者さんではなく宇宙環境による人間の身体を研究しておられる方なのです。

例えば宇宙に行ったら人間の身体の変化(宇宙酔いに代表される神経系統など)とか、無重力での人間の適応能力とか・・・
また宇宙生活での身体の変化を研究しておられるようでした。

その先生とご法事で何度かお会いしたのですが、曰く宇宙ステーションでの人間の身体の変化ということは、遅かれ早かれ適応していくのではないかと言われるのです。
ところが狭い宇宙ステーションでの人間関係のストレスによる身体の変化はいかんともしがたいといわれるのです。
つまり人間関係をいかに良好に保つかということは宇宙医学にとっても大きな課題だというのです

人間の英知を結集させた場所でも最後は人間関係なのかと思うと・・・面白いですね。

浄土・極楽

先代の住職の話です

ある真夜中に一本の電話がかかってきました。電話の相手は以前勝光寺の近くに住んでいて、よくお寺で遊んだ幼馴染からでした

何十年ぶりに聞く友達の声に驚き、話しているときに向こうからなぜ電話をしてきたのかということを話し始められたそうです

その幼馴染の人は弁護士で、苦労に苦労重ねた末に今の地位を築き、また子どもも自立し、さあこれからというときに奥さんを癌で亡くされたのです。以来その現実が引き受けられずに、自分の心を持て余すようになってしまいました。その時に、ふと昔お寺で遊んだことを思い出し、思わず電話されたそうです。
それがご縁で前住職との交流が再開したのですが、その方が「自分は苦労して頑張って生きてきたけれど、本当に何をしたかったのか?と妻を亡くして初めて思った」と告白されたそうです

人はそれぞれの歩みの中で、自分は本当に何を求めていたのか、何を願っていたのかと、ふと立ち止まる時がありますが、幼馴染の方の場合奥さんの死がそういう思いにさせたのではないでしょうか。

実は仏教において「浄土」とか「極楽」とか説かれていますが、ある意味人が本当に求めているものを言い当てた言葉だと思うのです
現在は浄土とか極楽というと手垢がついてしまって本来とはかけ離れていますが、本来意識するしないに関わらず、人が本当に願っている世界を「浄土・極楽」と表現されたのではないでしょうか
しかも浄土を求めていた自分に気がついていく過程を『観経』の韋提希(いだいけ)として説かれているのはそのことを表しているように思います。

まぁとにかく自分が本当に何を求めていたのかを知る(自分を知る)ということは確かな歩みの一歩になることだけは間違いありません。

今月のことばより

人の為にすると自分が苦しむ」−掲示板・今月のことばより−


僕の友達でマメな子がいるのですが、例えば誰かが誕生日だとするとメールでお祝いをしてあげたり、プレゼントを買ってあげたり・・・
また友達に何かあると心配をし、こまめに動くいい奴なのです。

ところがせっかくいい事しているのですが、もし相手がお礼を言わなかったり、意に反することをするとその途端にグチ愚痴出てしまうのです。

それは友人だけのことではなく、私たちも同じように思い通りの結果が得られないと相手を責めたり、時には憎んでしまいます。

それは何故でしょうか・・・

人のためにすると心の奥底で期待をしてしまうからではないでしょうか。期待をするがゆえに、思い通りにならないと許せないのです。

極論すると、思い通りの人間なんていないから、自分以外は許せなくなるのです。

それは言うまでもなく、私の意に沿わないというだけのことで、決してまわりが悪いわけではありません。

もしかして孤独感というのも自分の思い通りにならないと言うだけなのかもしれません。

お互い自分をみつめていきたいものです。

自由とわがままのちがい

自由は辞書を見ると「心のままであること。思う通り。自在」「責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと」(広辞苑)と書かれています

以前、喫茶店での会で友人が「束縛に耐えられない」と親を批判していたことがあったのですが、聞くと、結婚のことから門限のこと、服装に至るまでいちいち口を挟んでくるのだそうです。

その友だちは「私には自由がない」ことを口にしていたのですが、仲間から「家を出ればいいじゃないか」と指摘されて本人はハッと自分に気がついたのでした。

指摘どおり、もう社会人だから独り暮らしをすることは可能です。しかも独り暮らしをすれば親の束縛からある程度解放されるでしょう

しかし、今までそれをしてこなかったのは親といた方が楽だからです。親といれば食事のことからすべて面倒を見てもらえるし、お金も自由になります。
つまり友だちは無意識に親といることを選んでいた自分に気づいたのでした。

自分で選んだという自覚がないから、現実に対してグチっぽくなったり、束縛されていると感じてしまうのではないでしょうか。

私も周りのせいにしたり環境のせいにしたりしてできない理由意を並べ立て、自分の境遇を悲観していました。

しかし友人と同じように誰も束縛していたわけではありません。言うならば自分の思いが自分を束縛していただけなのです。

実際今日まですべて自分が選んできたのです。「我慢」してきたというかもしれませんが、物事をしないと最後に決めたのは自分なのです。

そのことに気が付かないまま、周りに責任を押し付けている生活を地獄というのかもしれません。

どんな境遇でも選んだという自覚がある人は「自由」であり「自在」なのです。

自由とわがままのちがい

自由とわがまま、どちらもしたいことをすることでは共通なのですが、僕は大きな差異(ちがい)があると思っています。

言うまでもなく人は関係性を持って生きています。わがままはしたいことをただするだけなのです。
自由はその周りの人に対して「伝える」ということがあるように思います。

例えば「アメリカに行きたい」ということがあれば、わがままは勝手にすることをいいますが、自由はなぜ行きたいか、その気持ちを周りに伝えるのだと思うのです。

おもしろいものでやりたいことをやろうとすると、反対する人が現れるんですよね。状況的に危険だとか、経済的に大変だとか、いろんな理由をつけながら・・・・
でももし自身が周りの反対で止めるならば、初めからしたかったわけではないのでしょう。
そう思うと周りからの反対は自分の気持ちの確認でもあるのです。本当にしたいことやわかってほしいことは気持ちが途切れることがありません。

しかも不思議なことに相手に自分の気持ちが伝わると、一番反対していた人は逆に応援してくれます。
考えてみれば一番反対する人は親だったり家族だったりするわけですから・・・一言で言えば一番心配してくれる人なのです。

どちらかというと私自身は「できない理由」を百ほど並べ周りの責任にしていました。そんなことを百年していても変わりません。しかも自分が伝えることもしていなかったわけですから・・・

でも些細なことでも周りの協力のもとやりたいことができた時、一人では決して味わえないものがあります。

とあるおじいちゃんの願い

 今日五十回会のご法事がありました。

そのご法事はご両親のお参りなのですが、施主(法事をする人)が九十才を越えたおじいちゃんなのです。

これで最後の法事だというのでそのおじいちゃんが一切仕切っておられました。

無事お勤めが終わり、少しお話をしていたのですが、とにかくご両親に心配かけ、迷惑をかけてきたことをしきりに仰っておられました。

若いころ戦争に行っておられたようですが、当時は生命なんか棄てる覚悟でいたようです。二親は二親で息子の死を覚悟して送り出したようですが、しかしそうは言っても親ですから、いつもいつも心配をしていたようです。

そのおじいちゃんが「今になって思うことは親にはホント辛い思いをさせてきた、あんな思いを二度とさせてはいけない」と言うのです。

そして憲法改正の話になり、「悲しみの世界を繰り返してはいけない。戦争ができるようにしてはいけない」と力強く言われていました。

年輩の方から言われたことは私自身意外でしたが、子や孫のことを思うと繰りかえしてはいけないと思うのだそうです。

確かにニュースなどで、子どもさんが事件やら事故に巻き込まれて、泣いている親の姿を見ると、私も人の親なので痛いほど伝わってきますが、私も悲しみの世界を作ってはいけないと感じています。

ご存知のように日本の最初の憲法は聖徳太子が作った17条憲法ですが、その最初の条文は『和をもって貴(たっと)しとなす』です。

つまり争いや戦争をしてはいけないとというものです。

確か記憶では太子は摂政の間、戦争はしなかったのではないかと思います。

するとなぜ太子は最初の条文に氏族間の争いや戦争を戒めたのかと言えば、いかに争いの作る世界が悲劇を生むのかを目の当たりにしていいたのではないでしょうか。

そう思うと今の安陪首相は憲法を改正し「美しい国」と言っていますが、そのおじいちゃんからすると現実を見なさいと言われるに違いありません。


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