未離欲(みりよく)だからこそ

「阿難」という人はお釈迦さまの十大弟子の一人です。

仏伝ではだいたい25年ぐらいお側におられ、一番教えを聞いた人といわれています。

ところが阿難は長く近くにいたにもかかわらず、なかなか悟れなかった人だといわれています。

仲間からは「未離欲(みりよく)」の阿難と言われていました。

仏伝によれば、お釈迦さまの乳母マハーパジャーパティの出家を懇願したり、お釈迦さまの最期(80才)を向かえる時に「依り所が失ってしまう」と木陰で泣いたり・・・・

しかし『大無量寿経』という経典で言えば、その阿難が大事な役割を果たしました。つまり「阿難の問い」によって法が説かれたのです。その「問い」がなければお経の存在はないほど大事な問いなのです。

お釈迦さまはその部分を「善哉、阿難。問いたてまつるところ甚(はなは)だ快(こころよ)し」と褒めたたえました。

考えてみれば問いもないところに真実を説いたとしても、それは種のないところに水を与えるようなもので、意味をなさないように思うのです。

言い換えれば「問い」が本当のことを語れる状況を作ったといえるでしょう。

すると問いは何故生まれたのかと思うとき、阿難の「未離欲」だからと思わずにはおれません。

「未離欲」ということは文字通り「欲が離れない」「受け止めらない」など悩みが尽きないというですが、そういうことが問わせたのではないでしょうか。

そう思うと阿難は決して褒められようとしたわけではなく、自分に正直に感じたままを尋ねたんだろうと思うのです。

そういう意味では何事も分かったこととせず、阿難のような自分に正直な問いを出せる自分でありたいと思うこのごろです。

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