ハンセン病問題

Q ハンセン病とはどんな病気ですか?

A ハンセン病とは、らい菌の感染によって起こる細菌感染症です。主に皮膚や筋肉に張りめぐらされた末梢神経などがおかされる病気で、感染力はごく弱いものです。臨床的に見ると感染者は、免疫異常の体質の人が乳幼児期に感染者と長期かつ濃厚に接触した場合がほとんどです。しかも衛生状態の改善により発病率も大幅に減少することもわかっています。
また一九四三(昭和一八)年に特効薬プロミンが開発されて以降ハンセン病は早期に治る病気になったことからも、まったく恐れる必要はありません。

 しかしながらハンセン病に対する差別と偏見はいまだ払拭されていないのが現状です。

 ハンセン病は古くからある病気ですが、歴史的に見ると、「らい」という記述は(明治以前は広く皮膚病も含まれる)最初『日本書紀』に見られます。また「今昔物語」「元亨釈書」(日本最初の仏教通史)「医談抄」(鎌倉時代の医学書)から一二世紀ごろには業病(悪業の報いでかかる難病)として考えられていたようです。また江戸時代には遺伝病だという迷信が定着し、多くの人は神社仏閣に身を寄せ周りと共存していました。

 その中で一八七三年、ノルウェーのハンセン博士の「らい菌」発見がハンセン病の歴史を大きく変えます。つまり、いままで遺伝病、業病、天刑病と思われていたものが、実は偏見であり迷信であることが証明されたからです。
 ところが日本において諸外国の体面から「らい予防法」を作り、恐ろしい伝染病として新たに国民に偏見を植え付け、長い間回復者を隔離し、今もお骨すら帰ることを許されない状況を作り出しました。

 その意味で、私たちはまず正しい情報を求め認識することが必要不可欠であることを思います。と同時に、誤った知識と偏見はいかに人を傷つけ差別していくかを私たちの歩みを検証しつつ学んでいくことが大切ではないでしょうか。

人間宣言

6月28日、競艇の女子選手・安藤千夏さん(39)が「今後は男子選手として登録し、名前も大将(ひろまさ)と改名する」という記事を目にしました。

安藤さんは「性同一性障害」といって、身体は女性だけれど心は男性というアンバランスな自分に長年悩まされてました。
今回の記者会見でその自分に別れを告げ、本当の自分を宣言し、ありままの自分で生きていくことを決意されたのですが、その記事に多くの反響があったようです。

「ありのままの自分として生きる」

簡単そうで実はとても難しいことではないでしょうか。

例えば女性ならば、女らしくしていれば何も問題はないのでしょう。でも本当の自分として生きようとするといろんな問題に出会わなければなりません。
職場の中で、学校の中で、その他もろもろの人間関係の中で、本当に自分を出そうとすると難しく困難なことなのでしょう

でも、あの安藤さんの笑顔をみると、絶対自分を出せた方が楽しくて楽な生き方に違いないと思うのです。

でもなかなか自分を出せないというのが本当のところでしょう。

私も過去に自分を演じて生きてきたときがありましたが、今思うと人間関係をうまくやりたいという思いもあったでしょうし、自分に自信がもてなかったということもあったようです。

でも現在は自信がなくても嫌いでも自分だと思っているのですが、それは決して自分が何かを得たからそんな気持ちになったわけではありません。
長い間自分を殺してきたことが、しんどかったのです。苦しかったのです。
そういう思いから「解放されたい」という気持ちが、私を一歩押し出したように思うのです。

安藤さんの今後のご活躍を念じ申し上げます

いい子

今から30年前家庭内暴力が絶えない子どもを父親が金属バットで殺すという事件が起きました。

それまで暴れていた子は成績優秀で進学校へも合格し、順風満帆だったのです。

ところが高校に入ったとたん成績がドンドン落ち始めてから、学校へ行かなくなり、家庭での暴力が始まったのです。

その子は「お前らのせいでこうなった。青春を返せ」と叫びながら暴れていたというのです。

また同じようなケースで、子どもが何かをつぶやきながら暴れていたのですが、

3ヶ月たってその意味がわかり愕然としたそうです。

「小学二年の○月○日、子ども会で○○へ行った。でもボクはピアノのけいこで行けなかった。小学4年の○月○日、AくんBくんC子さんDさん(当時の8人の友だちをフルネームで言った)はスケートに行った。でもぼくは塾のテストで行かれなかった。小学5年の・・・」

家庭内暴力の場合、この二つのケースのように「時間を返せ」と叫ぶのだそうです。しかもそれまでは、とてもおとなしく「いい子」だったのです。

「いい子」とはまわりに合わせて自分を出さない子であり、

この場合ずっと自分を押し殺してきた子をいうのでしょう。

その子たちが何らかのきっかけで、手のつけられないような状態になるのです。

抑えてきた時間が長ければ長いほど、よりいっそう激しくなるのです。

いま、「いい子」がどんどん増えています・・・私たち親は目覚めなければなりません。

居場所

昨年の大晦日のことです。お寺に遊びに来ている中学生の子どもたちと話す機会がありました。

女の子ふたりで来てたんですが、初めは取り留めのない話から始まり、

クラブのこと友だちのこと先生のこと、クラスのいじめのことを話してくれました。

感想ですが、学校の現状を垣間見た気がしました。

彼女たちは綱渡りしているような感じなんです。

いつも繋がってるかどうか不安なんですね。

いついじめに遭うかわからない、そんな状況なんですね。

人の顔を見ながらビクビクと間を縫うように生きてるんです。

ふたりは小学生から友達なんですが、僕を通して相手に「あの時は誤解なのよ」とそれとなく言うわけです。

相手も僕を通して同じことを訴えているんですね。

小学生のときあんなに無邪気に遊んでいたのに、と僕は思うのですが微妙なんです。

毎日毎日そんなことのくり返しだと聞いて、思わず「おまえらは、がんばってるんやな、ホントそう思ったよ」

というと、うれしそうな顔をしていました。

子どもたちは学校で戦い、そして家に帰ると「そんな暇があったら、勉強でもしなさい」と言われて羽を休める場所がないんです。

でもこの問題は子どもたちだけではありません。

私たち大人も会社のため、子どものためとそれぞれの場所で戦って、

本当の思いや自分を語る場所がないのではないでしょうか。

その意味でこの「居場所」ということがいま必要だと思うのです。

座力

今年の元旦だったでしょうか。

朝日新聞の「天声人語」におもしろい言葉が載っていました。

 「座力」

この言葉は造語ですが、学者さんか作家の人が、物事を大成するにはいろんな能力が必要だが

「座る」そのことがとても大事だというのです。

その場にじっと座る。長い間座ることができる人。

つまりこれも一種の能力だということで「座力」という表現が使われていたのですが・・・なかなかおもしろい。

ここ雪国は、ものごとを深く考える、いわゆる思想家を多く輩出している土地柄ですが、

昔ならば雪の深いところで数ヶ月の間、外から出られないということを考えると、

風土そのものが座力を育てる環境になっていたのかもしれません。

有名どころでは西田幾多郎・鈴木大拙・曽我量深・平澤興・加賀の三羽烏などおられますが、それだけではありません。

実は名もなき人だけれど「難度海(なんどかい)」といわれる人生を

深く問い、全うしていった方々がたくさんおられるのです。

名もなき人は「妙好人(みょうこうにん)」と慕われ、人生を尽して存在の意義を明らかにしていかれました。

いまの時代、テレビや娯楽などまわりには私たちを楽しませてくれるものがたくさんありますが、

ある意味今日ほど自分をごまかし、曖昧にできる時代もないということでしょう。

こういう時だからこそ、改めて「座力」ということ、

つまりじっくり腰を落ち着けて真向かいになる時間を少しでも持ちたいものです。

正義って??

私の小さい頃に「ウルトラセブン」という番組があったのですが、学生時代にたまたま再放送で見てこんな物語だったのかと感心したことを憶えています。

いわゆる勧善懲悪の話ではなく、人間の本質を捉えていた記憶があるのです。

特に印象に残っているのは、ウルトラセブンが正義そのものを問われるという内容でした。

人類の科学が発達し、海中都市を建設しているところから始まるのですが、そこに突然怪獣が現れます。

しかしその怪獣は人間より昔に住んでいた実は海底人だったのです。

子どもに姿を変えた海底人はウルトラセブンに訴えます。

地球は僕らの住みかであったのに、それを後から生まれた人間が勝手に汚し、侵略してきたのだ、と。

その事実を知ったウルトラセブンは迷うわけです。地球を守るというのは、どっちを守ることなのかと。海底人か、はたまた人間かと・・・

結局、怪獣をやっつけてしまうのですが、最後のシーンで、セブンがたたずむところで終わるのです。

この手のヒーローものとはチョッと趣きが違うのですが、おもしろかった記憶があります。

仏教で煩悩という言葉があるのですが、煩悩に入るのは悪・邪だけではありません。善も正(義)もまた煩悩なのです。

どちらかといえば悪や邪は誰もがわかるので迷いませんが、善や正はかえって、思い込みがあるだけ迷いやすいですし、間違いやすいのです。

親鸞聖人の書かれたものに「小慈小悲もなき」と「小」の字を使ったり「雑毒・雑修の善」と「雑」とか「毒」の字をもって本質を指摘していますが、このウルトラセブンのように改めて考えてみるときではないでしょうか。

お父さん死なないで

過日、新聞に「父親の自殺急増」という見出しが載りました。

今、日本で年間に3万人の人が自殺をしていますが、あしなが育英会によると、父親の自殺を理由に奨学金を申請している子どもたちが、3年前と比べて7倍に膨れ上がったのだそうです。

その理由の半数が倒産・リストラによる経済事情により、遺児になってしまったからというものだったそうです。

この不況によって、どうしても死を選ばなくてはならなかったのだろうが・・・それでも死なないでほしい。

NHKの番組で、親に自殺をされてしまった子どもたちのことについて特集を組んでいるのをたまたま見たのですが、ほとんどの子どもたちは心に大きな傷を抱え今も苦しんでいるとのことです。

その中で7年かかってようやく現実と向かい合うことができた子どものひとりが「どんなに苦しくても貧しくても、お父さんと一緒に生活したかった・・・お父さんには生きててほしかった」ともらしていました。

現実が引き受けられず、そのストレスを子どもに向ける児童虐待は許せないが・・・同じように引き受けられず自殺をしようというのは・・・子どもたちのためにも思いとどまってほしい!! 

いまどきの出家

近年、経済界の最先端をいく証券マンや銀行マンの人たちが座禅を組んだり、出家をするという記事を目にします。

友人の知り合いも出家しようと妻に胸の内をあかしたところところ「子どもはどうするの」と言われ断念したと聞きました。

また、本山(京都・東本願寺)の教師修練にも入寺とは関係なく資格を取得しようとする傾向が少し見えているようです。

一見、経済と仏教という対極にあるようなものが、今日の時代に結びついているというのはおもしろい現象といえるのではないでしょうか。

記憶は定かではありませんがその記事は「過去のデータ−をもとにありったけの知識・経験を持って明日の経済を予測する。

しかしそれが外れてしまう。

そういうことを毎日毎日繰り返したりしていると、一体人間の知識とは何か人間とは何かを問わざるを得ないようになった」と仏教を学ぶ動機を掲載していたようでした。

本来仏教とは、記事にもあるように非合理的なものを信じるとか、現実逃避するためのものではありません。

人間存在そのものを問い尋ね、その意義を明らかにするものなのです。

その意味では経済界という現実を見てきた人が改めて仏教を学ぶことは、社会においても宗教界においてもたいへん意味のあることのように思います。

ご活躍を心より念じ申し上げます。

児童虐待について

児童虐待のニュースが非常に多いですね。イヤだイヤだ。
 
今月の21日の新聞には、昨年の児童相談所に寄せられた相談が18,804件になり、前年度の1,6倍だと報道されてましたが、その中で実際に発生し事件化している最も多い県は愛知県なんだそうです。

それについてある人が、一つの要因として管理教育にあることを指摘しているのですが、その意見に僕は賛成です。

愛知県は特に管理教育の推進をしてきた県で有名ですが、その世代が親になり、子どもと向き合ったとき、されてきたことと同じように子どもに対してもいい子を強要し、枠にはめようとして問題が起きているのではないでしょうか。

思うに、僕らの世代は教育の名のもとに管理されてきたから、きっと教育と管理の差異が曖昧なんだなぁ。

人として本当に何を教えなければならないのか、人はどうあるべきかを考えずに親になってしまった・・・
それがこの問題の背景にあると思っています。

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